The Rolling Stones
Originator

Brian Jones
1942|02|28<--->1969|07|02

「ローラ・ジャクソン著/ストーンズに葬られた男」より抜粋
From THE UNTOLD LIFE AND MYSTERIOUS DEATH OF BRIAN JONES
By LAURA JACKSON

1942〜
人と違っていたい
わんぱくでエネルギッシュな少年はすぐに、個性を発揮するようになった。母親によると、ごく幼いころから、彼は人と同じ行動をするのを嫌っていた。この傾向は年を重ねるにつれさらに強くなり、彼は最も落ち込んでいた時期---1967年---には精神科医に、男たちが一様に同じ格好をしていることに恐怖を覚えると語っている。人と違うことこそ、ブライアンのブライアンたる証だった。

1962
スライド・ギター・プレイヤー
後年、ビル・ワイマンはブライアンの才能について語っている。 「彼は見事なスライド・ギター・プレイヤーだった。イングランドが生んだ初めてのスライド・ギター・プレイヤーだった。」

1962
ギターが多すぎることについて
----彼はそれを利点に転ずる巧妙な方法を考えついた。彼のギブソンとキース(リチャーズ)のホフナーで、プレイのやり取りをする図を想像したのだ。熱心に練習をすれば、リードとリズムという形ではなく、あるときはデュエットという形で、たがいのソロを合わせていき、自然なハーモニーにブレンドし、片方が低音を、片方が高音を担当することができると考えた。(そう、ストーンズ独特のサウンドのキーである2台のギターの絡みはこの時ブライアンによってもたらされたのだ)

1962
バンド名決定
マーキーでのギグが決まるとすぐに、ブライアンはとうとうバンドに名前をつけることにした。彼は長年のアイドルだったマディ・ウォーターズに敬意を表して、ウォーターズの曲「Rollin' Stone」のタイトルを選んだ。スチュ(イアン・スチュアート)はこの選択に不満だったが、ブライアンのバンドなのだから彼の好きな名をつければいいというのが大方の意見だった。

1963
ストーンズのスタイル
ローリン・ストーンズのスタイルはユニークこの上なかった。普段着に身を包んだ彼らは最初、あちこちのパブからくすねてきたスツールに座って、演奏していた。足下にはビールを置き、曲の合間にはたばこに火を点けた。これまでこんなふうにふるまうバンドを見たことのなかった観客は、すっかり見とれていた。自由で柔軟性のあるステージを見せるブライアンは、当初から最も輝きを放っていた。彼がバンド内で一番才能があることは疑いがなかった。彼のギターは観客の心をかきたて、酸欠状態の窮屈な会場を自らの悪意に満ちたエネルギーでいっぱいにした。音楽面だけではなく、見てくれも、この初期の段階からすでに、彼が一番目を引いた。少年は彼を手本とし、少女は彼の魅惑的な瞳に幻想を抱いた。彼には磁石のような魅力が備わっていた。のちにキンクスのリード・シンガーとなるレイ・デイヴィスは次のように言う。
「ブライアンほど気取ったルックスのやつにはお目にかかったことがなかった。だけど、彼は人を動かさずにはおかない魅力をもったミュージシャンでもあった」
---「感覚面では、ストーンズの中でブライアンが最も重要だった。彼には他の連中よりもずっと鋭さがあったからね。それに彼は危険な男だった。ストーンズのワルのイメージは、ミック(ジャガー)ではなく、ブライアンがはじめたんだ。観客の歓心を引こうなんてことは、ブライアンはしないんだ。ブライアンは媚びを売らない。彼は観客をからかい、彼らを煽る。それに観客が反応する。ステージ上でブライアンはひどくいやな野郎になれる---」

1963
ジョン・レノン絶賛
彼ら(ビートルズ)が入ってきたとき、ブライアンはちょうどハーモニカを吹いていた。ジョン・レノンはそれを聞いてぶっとんだ。優秀なハーモニカ・プレイヤーを自認していたレノンも、ジョーンズには比較にならないことを率直に認めた。量の多い髪を顔にたらし、マイクの前に前屈みで立ったブライアンは、手に持ったブルース・ハープをいとおしそうに操り、独特の哀愁に満ちたサウンドを作り出した。演奏を聞き終えたレノンは、臆面もなく叫んだ。
「これこそ本当のハーモニカの演奏だ。おれにはできない。おれはただ、吹いたり吸ったりするだけなんだから」と。



1964
THE ROLLING STONES
1964
12×5


1965
スウィンギン・ロンドンの顔役
ブライアンの顔とイメージは、時代を超えて、スウィンギン・シックスティーズを象徴するものとなった。ブライアンの写真を見ると、キース・リチャーズがいうように、音楽そのものよりもイメージの方が大きな影響力をもっていた当時、彼がある種の特権階級に属していたのがはっきりとわかる。ブロンドの髪がかもしだす生意気な雰囲気、自信たっぷりで傲慢にも見える姿勢、そして自由恋愛の精神をもった彼は、謎めいた"美しき"憧れの君だった。さらに重要なのは、彼が体制や因習や伝統に抵抗する若者の声を代弁するカルト的存在となったことだ。世界中のティーンエイジの少年たちは、反抗期の純粋なエッセンスとして、彼に憧れるようになった。

1965
ワルのイメージにはうんざりだ
「親を疎外し、子供を味方につける」べきだという発言についてブライアンは、
「おれが思うに、あるひとつの層だけの受けを狙って、意図的にほかの層の反感を招くやり方というのは、どんなエンターテイナーとってもひどく消極的な方法だね。物事を進める上でとても消極的なやり方だし、そういう提案をすること自体ばかげてる」
マネージャーが、ストーンズはサインをしないからと言って、待ちかまえていた何百人ものファンを鼻であしらったとき、ブライアンは彼のやり方に怒って、劇場の入り口でファンにもみくちゃにされながら、手が痛くなるまで1時間もサインをしまくった。ブライアンはファンを大切にしていた。彼らがレコードを買ってくれなければ、自分たちに勝ち目はないことを、彼は決して忘れはしなかった。彼は大衆に対する義務を、ときには無理をしてまで果たそうとしていた。サヴィルは次のように言う。
「あるときなど、袋に詰まった6000通以上ものファンレターに返事ができないことに、ひどくうろたえていた。彼に返事を書く時間なんて、とうていありはしなかった」(ワルのイメージでコマーシャリズムにのりかけたストーンズだっただけに番組で下品な言葉を吐くだの、とにかく始末の終えない連中をある意味演じた。ブライアンはそのやり方に疑問を感じたのだった)

1965
ブライアンには何か精神的なものがあった
フィル・メイは頑強に主張する。 「ストーンズにとってブライアンは非常に重要な存在だった。絶対欠かせなかった。彼なしのストーンズが二度と前のようにはなれなかった事実でそれは明らかだ。彼らがよくないって言ってるわけじゃないよ。だが、ブライアンがいるときとは変わってしまった。ほかの人間が入っても、おれは別にミック・テイラーやロン・ウッドにふくむところは何もないが、彼らは単にギタリストのひとりにすぎないのさ。ブライアンには何か精神的なものがあった。彼は信条的に急進派だった。それが重要だった。」



1965
THE ROLLING STONES, NOW
1965
out of our heads
1965
december's chidren


1965
ミックやキースはただの学生にしか見えなかった
ステージのブライアンを見ていたアニタは、彼の動きと、彼がかもしだすすばらしいオーラに魅了されていた。
「ブライアンはミックやキースのはるか彼方にいたわ。ふたりは彼の横にいると、ただの学生にしか見えなかった」

1965
ファッション
ブライアンのファッションセンスが世界的に評価されるようになった。それから数年間で、ブライアンは服の着こなしを芸術にまで高め、現在のポップスターの原形となった。フロックコートやフェルトの中折れ帽や宝石を身につけ、ストーンズにきらびやかさをはじめて持ち込んだのは彼だった。ポップ業界にいるものは盲目的に彼の真似をした。彼はかつて服飾デザイナーになりたいともらしたことがあったが、たしかに彼は、男性でも絹やサテンやヴェルヴェットを使って、これらのセクシーな生地をスタイリッシュかつ優雅に、男らしさを失うことなく身にまとうことができるという大胆な例を示した。



1966
AFTERMATH
1966
got LIVE if you want it!


1966
本物の音楽学者
このアルバム(AFTERMATH)のセールスポイントは、もちろん初のミック/キースコンビによる全曲オリジナルであることももちろんだが、それとは別にブライアンが曲に持ち込んだ創造性と洞察力にあった。めっぽう好奇心の強いブライアンは、ロックのあらゆるルールを破った。彼はこれまでロック・ミュージックで使われたことのなかった楽器類をスタジオに持ち込んだ。ジェレド・マンコウィッツは、
「彼はすばらしかった。彼は文字通り手にしたものはなんでも演奏することができた。初めて目にした楽器でさえもだ。彼はその才能で後世に記憶されるべきだ」と説明する。そしてブライアンの卓越した才能はそれだけにとどまらなかった。彼にはアレンジャーとしての優れた才能もあった。因習にとらわれることもなかった。フルート、ハープシコード、ダルシマーを導入し、ロックに知的で新しく微妙な次元を与えた。ストーンズもエンジニアも、ブライアンが次に何をもってスタジオに入って来るか予想もつかずに、畏敬の念を表したうっとりした表情で彼の行動を見守っていた。彼が独創的な果汁を搾り出しはじめると、レコーディングに関わった全員のパフォーマンスの水準が上昇した。そのうちに彼は驚くほどエキゾチックな楽器を次々とものにし、模範を示した。ポップ界のミュージシャンたちはそれをコピーするか、懸命に対抗するしかなかった。

1966
Paint It Black
もともとこの曲はパロディのつもりでつくられた。ビル・ワイマンは、昔やっていたシネマオルガン奏者の真似をして、オルガンを弾いたりもしたが、どうもうまくいかない。ところが、ブライアンが進み出て、彼なりの解釈で演奏すると、この曲はまったく新しくなった。彼が弾くヒンズーのシターはこれからも、もっとも斬新で伝統を打ち破ったものと評価されるだろうが、この複雑な楽器を直感的に理解した彼のやり方は、ジョージ・ハリソンがNorweigian Woodで聞かせた解釈の仕方とはかなり異なっていた。ハリソンがこの楽器を細心の注意を払って扱ったとしたら、ブライアンは威勢よく激しく扱った。刺激的でエキゾチックな不協和音に対する共感は、彼の心の奥深くから出たものだった。デイヴ・トムソンは、
「ブライアンが弾き方を見つけ出すまでに1時間とかからなかった。あっというまのことだった!」と言う。



1967
BETWEEAN THE BUTTONS
1967
FLOWERS
1967
THEIR SATANIC MAJESTIES REQUEST


1968
BEGGARS BANQUET
この年の暮れにリリースされたアルバム(BEGGARS BANQUET)は、世界中でブライアン「ひとりの手柄」と誉めたたえられることになる。批評家たちは、彼の卓越したアレンジと、マンドリンやマリンバなどを使って新しい感触を音楽に加えたことを激賞した。



1968
BEGGARS BANQUET
1969
LET IT BLEED


1969
ブライアン脱退
事実上、ミック/キースのソングライティングの前では、引っ込み思案で人一倍繊細なブライアンは、自作曲を披露することもせず、バンド内での自分のポジションがどんどんきついものになっていった。サウンドも結成当時とはかけ離れた方向へ向かっていた。ビートルズの「Sgt.Peppers...」を聞き、ミック/キースがTHEIR SATANIC MAJESTIES REQUESTを作ろうと言い出したが、最後までブライアンは猛反対していたことでも明らか。この間、ドラッグへはしったり、モロッコのジュージューカのマスターミュージシャンズに魅了されたりしている。キースに恋人を横取りされたり...
1969年6月8日
「ストーンズがリリースするレコードに関して、ほかのメンバーとまったく意見が合わなくなった。わたしは自分らしい音楽を演奏したい欲求をもっているので、この関係に友好裡に終止符を打つことが唯一の解決策だと、われわれは合意した」

1969
ブライアン暗殺
1969年7月2日
自宅プールにて、フランク・サログッドの手により溺れさせられ、わずか27年の生涯を終える。(ブライアンの死は長い間謎を残していたが、殺されたのはほぼ間違いない)

1969
ハイドパーク
ストーンズはブライアンの死後2日目のハイドパークでの野外コンサートを予定通りおこなうと発表した。(このコンサートはビデオでも発売されている)パット・アンドリューズは言う。
「かわいそうなブライアンが死んでからわずか2日しか経っていなかったのよ。埋葬もすんでいないし。検死は月曜に行われることになっていた。なのにストーンズは---ブライアンが創ったバンドは---まるで何もなかったように、ステージに立ってファンの前で演奏するなんて。この事件をきっかけにバンドが解散するのではないかと思われないために、彼らは必死だったんだと思う」(今思うと、ビデオで見たがミックがシェリーの詩を読むシーンも胡散臭く感じられる、残念だ、がっかりだ)

1969〜
ブライアン亡き後のストーンズ
ノエル・レディングは告白する。 「おれにとっては、あれで終わりだった。その日、日記をつけたのだが、今でも持っているよ。そこにはこうあった。<ブライアン・ジョーンズ抜きのローリング・ストーンズは存在しない>と」
ストーンズはもちろん存在しつづけ、あれから20年以上経つ今でも活動を続けているが、つづけることで音楽界における破壊的な力になっているというよりは、あの比類なき60年代の名声に頼っているだけと考えるものが多い。20年以上経って振り返ってみると、1972年のアルバムExile On Mian Streetで頂点をきわめる創造的な3年間はあったものの、ブライアン・ジョーンズがストーンズにもたらした斬新で実験的な才能が、永遠に失われてしまったことは明らかだ。ロック評論家のロバート・サンドールがいみじくも言っている。
「内情を知っているものが共通に認識しているのは、ブライアンの死後ストーンズが動脈硬化を起こしたことだろう」

1969
ブライアン葬儀
7月10日
ストーンズで参列したのは、チャーリー・ワッツとビル・ワイマンのみだった。キースについてはスタジオで仕事をしていたそうだ(キースファンには悪いがまともな神経じゃないね)。ビルはかつて次のように語っている。
「チェルトナムの町中を車で通り抜けたとき、歩道は群衆で埋め尽くされていた。あんな光景は見たことがなかった。まるで戴冠式か何かのようだった。彼の家族や親戚はみんな静かにしていたが、ほかの誰もが泣いて、動揺していた。何千人ものファンであふれかえっていた」
墓地には、花輪を載せたブロンズの棺を一目見ようと涙にくれたさらに何百人ものファンが押し寄せていた。ブライアンの棺が墓地の門をくぐると、警ら中の警官がひとり素早く敬礼をした。その仕草に、葬列の1台に乗っていたチャーリー・ワッツはむせび泣いた。埋葬がすんで数時間経っても、熱心なファンは荒涼とした墓地に座り、頭を垂れ、亡くなったアイドルへ祈りを捧げていた。

Rolling Stones関連のサイトへ行っても、ブライアンについてほとんど書かれていません、あのストーンズは誰が作ったのでしょう?ボクは60年代のストーンズが一番好きで、もちろんその中でもブライアンが飛び抜けてスキなわけで、エド・サリバンショーでPaint It Blackをあぐらをかいてシタールを演奏するブライアンのあの姿にしびれまくるのです。 ストーンズファンのひとで、もしや「ブライアンて誰やねん」てひとがいたら是非「ローラ・ジャクソン著/ストーンズに葬られた男」を読んでみてください(オレンジの装丁のハードカバーっす) ブライアンが生きてたら(たらればはないのですが)今頃何してるんでしょうね。