| 人と違っていたい |
わんぱくでエネルギッシュな少年はすぐに、個性を発揮するようになった。母親によると、ごく幼いころから、彼は人と同じ行動をするのを嫌っていた。この傾向は年を重ねるにつれさらに強くなり、彼は最も落ち込んでいた時期---1967年---には精神科医に、男たちが一様に同じ格好をしていることに恐怖を覚えると語っている。人と違うことこそ、ブライアンのブライアンたる証だった。 |
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| スライド・ギター・プレイヤー |
後年、ビル・ワイマンはブライアンの才能について語っている。
「彼は見事なスライド・ギター・プレイヤーだった。イングランドが生んだ初めてのスライド・ギター・プレイヤーだった。」 |
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| ギターが多すぎることについて |
----彼はそれを利点に転ずる巧妙な方法を考えついた。彼のギブソンとキース(リチャーズ)のホフナーで、プレイのやり取りをする図を想像したのだ。熱心に練習をすれば、リードとリズムという形ではなく、あるときはデュエットという形で、たがいのソロを合わせていき、自然なハーモニーにブレンドし、片方が低音を、片方が高音を担当することができると考えた。(そう、ストーンズ独特のサウンドのキーである2台のギターの絡みはこの時ブライアンによってもたらされたのだ) |
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| バンド名決定 |
マーキーでのギグが決まるとすぐに、ブライアンはとうとうバンドに名前をつけることにした。彼は長年のアイドルだったマディ・ウォーターズに敬意を表して、ウォーターズの曲「Rollin' Stone」のタイトルを選んだ。スチュ(イアン・スチュアート)はこの選択に不満だったが、ブライアンのバンドなのだから彼の好きな名をつければいいというのが大方の意見だった。 |
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| ストーンズのスタイル |
ローリン・ストーンズのスタイルはユニークこの上なかった。普段着に身を包んだ彼らは最初、あちこちのパブからくすねてきたスツールに座って、演奏していた。足下にはビールを置き、曲の合間にはたばこに火を点けた。これまでこんなふうにふるまうバンドを見たことのなかった観客は、すっかり見とれていた。自由で柔軟性のあるステージを見せるブライアンは、当初から最も輝きを放っていた。彼がバンド内で一番才能があることは疑いがなかった。彼のギターは観客の心をかきたて、酸欠状態の窮屈な会場を自らの悪意に満ちたエネルギーでいっぱいにした。音楽面だけではなく、見てくれも、この初期の段階からすでに、彼が一番目を引いた。少年は彼を手本とし、少女は彼の魅惑的な瞳に幻想を抱いた。彼には磁石のような魅力が備わっていた。のちにキンクスのリード・シンガーとなるレイ・デイヴィスは次のように言う。
「ブライアンほど気取ったルックスのやつにはお目にかかったことがなかった。だけど、彼は人を動かさずにはおかない魅力をもったミュージシャンでもあった」
---「感覚面では、ストーンズの中でブライアンが最も重要だった。彼には他の連中よりもずっと鋭さがあったからね。それに彼は危険な男だった。ストーンズのワルのイメージは、ミック(ジャガー)ではなく、ブライアンがはじめたんだ。観客の歓心を引こうなんてことは、ブライアンはしないんだ。ブライアンは媚びを売らない。彼は観客をからかい、彼らを煽る。それに観客が反応する。ステージ上でブライアンはひどくいやな野郎になれる---」 |
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| ジョン・レノン絶賛 |
彼ら(ビートルズ)が入ってきたとき、ブライアンはちょうどハーモニカを吹いていた。ジョン・レノンはそれを聞いてぶっとんだ。優秀なハーモニカ・プレイヤーを自認していたレノンも、ジョーンズには比較にならないことを率直に認めた。量の多い髪を顔にたらし、マイクの前に前屈みで立ったブライアンは、手に持ったブルース・ハープをいとおしそうに操り、独特の哀愁に満ちたサウンドを作り出した。演奏を聞き終えたレノンは、臆面もなく叫んだ。
「これこそ本当のハーモニカの演奏だ。おれにはできない。おれはただ、吹いたり吸ったりするだけなんだから」と。
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| ブライアン脱退 |
事実上、ミック/キースのソングライティングの前では、引っ込み思案で人一倍繊細なブライアンは、自作曲を披露することもせず、バンド内での自分のポジションがどんどんきついものになっていった。サウンドも結成当時とはかけ離れた方向へ向かっていた。ビートルズの「Sgt.Peppers...」を聞き、ミック/キースがTHEIR SATANIC MAJESTIES REQUESTを作ろうと言い出したが、最後までブライアンは猛反対していたことでも明らか。この間、ドラッグへはしったり、モロッコのジュージューカのマスターミュージシャンズに魅了されたりしている。キースに恋人を横取りされたり...
1969年6月8日
「ストーンズがリリースするレコードに関して、ほかのメンバーとまったく意見が合わなくなった。わたしは自分らしい音楽を演奏したい欲求をもっているので、この関係に友好裡に終止符を打つことが唯一の解決策だと、われわれは合意した」 |
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| ブライアン暗殺 |
1969年7月2日
自宅プールにて、フランク・サログッドの手により溺れさせられ、わずか27年の生涯を終える。(ブライアンの死は長い間謎を残していたが、殺されたのはほぼ間違いない) |
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| ハイドパーク |
ストーンズはブライアンの死後2日目のハイドパークでの野外コンサートを予定通りおこなうと発表した。(このコンサートはビデオでも発売されている)パット・アンドリューズは言う。
「かわいそうなブライアンが死んでからわずか2日しか経っていなかったのよ。埋葬もすんでいないし。検死は月曜に行われることになっていた。なのにストーンズは---ブライアンが創ったバンドは---まるで何もなかったように、ステージに立ってファンの前で演奏するなんて。この事件をきっかけにバンドが解散するのではないかと思われないために、彼らは必死だったんだと思う」(今思うと、ビデオで見たがミックがシェリーの詩を読むシーンも胡散臭く感じられる、残念だ、がっかりだ) |
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| ブライアン亡き後のストーンズ |
ノエル・レディングは告白する。
「おれにとっては、あれで終わりだった。その日、日記をつけたのだが、今でも持っているよ。そこにはこうあった。<ブライアン・ジョーンズ抜きのローリング・ストーンズは存在しない>と」
ストーンズはもちろん存在しつづけ、あれから20年以上経つ今でも活動を続けているが、つづけることで音楽界における破壊的な力になっているというよりは、あの比類なき60年代の名声に頼っているだけと考えるものが多い。20年以上経って振り返ってみると、1972年のアルバムExile On Mian Streetで頂点をきわめる創造的な3年間はあったものの、ブライアン・ジョーンズがストーンズにもたらした斬新で実験的な才能が、永遠に失われてしまったことは明らかだ。ロック評論家のロバート・サンドールがいみじくも言っている。
「内情を知っているものが共通に認識しているのは、ブライアンの死後ストーンズが動脈硬化を起こしたことだろう」 |
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| ブライアン葬儀 |
7月10日
ストーンズで参列したのは、チャーリー・ワッツとビル・ワイマンのみだった。キースについてはスタジオで仕事をしていたそうだ(キースファンには悪いがまともな神経じゃないね)。ビルはかつて次のように語っている。
「チェルトナムの町中を車で通り抜けたとき、歩道は群衆で埋め尽くされていた。あんな光景は見たことがなかった。まるで戴冠式か何かのようだった。彼の家族や親戚はみんな静かにしていたが、ほかの誰もが泣いて、動揺していた。何千人ものファンであふれかえっていた」
墓地には、花輪を載せたブロンズの棺を一目見ようと涙にくれたさらに何百人ものファンが押し寄せていた。ブライアンの棺が墓地の門をくぐると、警ら中の警官がひとり素早く敬礼をした。その仕草に、葬列の1台に乗っていたチャーリー・ワッツはむせび泣いた。埋葬がすんで数時間経っても、熱心なファンは荒涼とした墓地に座り、頭を垂れ、亡くなったアイドルへ祈りを捧げていた。 |
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