石巻レポート(2011/4/18-23)

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4/18(月)


週末に高速バスでと考えていたがぼやぼやしてたらすぐに満席になり予約とれず、福島まで再開している東北新幹線で福島経由で仙台へ向かうことにした。

実は「新幹線が選択肢としてある」というのもツイッターの岩上安身氏のつぶやき(4/16)が元でした。これで運転見合わせの可能性がある覚悟もしーの。

この5年間欠かしていない日課のボイトレ基礎練習をすませ、いざ!

AM11:36東京発 MAXやまびこ号、初と言ってもいい東北の地へ。

現地で食料調達ができるか不明だが、東京駅で昼飯用におにぎり2個と蓋付き(ここ大事)コーヒーを購入。一応カロリーメイトやチョコレートなど非常食で食いつなぐつもりでは準備している(結果的にはこれらは手つかずだった)

福島まで2時間。

福島駅ホームには名産品を販売する女性2名(1名マスクなし)がいたし、厳戒態勢という空気は感じなかった。

ちなみにiPhoneからアクセスし放射線量(厳密にはその位置から一番近い場所で計測された値を表示)が計れるアイガイガーでは都内や茨城では数値が出ていたものの、福島県内、宮城県内いずれも「データなし」でした。「なし」なわけはないんで「開示されておらず」だと思われます。知りたい方は放射線・原子力教育関係者有志による全国環境放射線モニタリングで福島(福島市内:毎時1〜2.xマイクロシーベルト)、宮城(仙台青葉区:毎時0.07マイクロシーベルト)含め全国の値が見られます。この日は東京の方が仙台より数値高いのが分かります。

専門家じゃないんで軽く触れる程度ですが、日本-欧米間を飛行機で往復する際に浴びる放射線量はおよそ100マイクロシーベルト。日本人の年間平均被曝放射線量は2,400マイクロシーベルト。科学技術庁が決めた人体の年間許容量は50,000マイクロシーベルトとのこと。アイガイガーの単位が毎時マイクロシーベルトなので統一しました。1,000で割ればミリシーベルトになります。

アイガイガー自体4/15にリリースされたばかりなのでせっかくだからと試してみました。目安程度。



神奈川県川崎 茨城県常陸大宮市 福島県浪江町 宮城県石巻市


閑話休題。

福島 - 仙台間の新幹線は運行休止中のため、臨時で新幹線リレー号というのが用意され、これで仙台へ1時間。昔の型の趣きある青い電車でした。

※4/25(月)に福島 - 仙台間も開通したようです


天井高く(もしかして寝台になる?)向かい合わせのシート。

福島駅出てすぐの線路脇のタンポポが印象的。黄色っていい。

東福島過ぎたあたりで新幹線の橋げたチェック(or 修繕)している作業員が見えた(3-4名)

鯉のぼりが見えたり、洗濯物を普通に外に干している家もあり。何、このメモしたのを箇条書きにしてる感じ。

仙台手前、船岡城址のある山の上に白い菩薩像みたいな像。調べたら高さ24メートルもの「船岡平和観音」だとか。

途中「がんばっぺ、名取!」という横断幕。横断幕はいろいろな場所で見られた。

名取川手前の運転免許試験場ではクレーンのような特殊車両の実技講習をやっている光景が見え、こういった特殊車両や運転手が被災地に求められているから一念発起で免許取得しようとしている若者がいる!と勝手な想像をしてニヤニヤする。

途中仮設住宅建設中と思われる光景を目にする。


仙台着。

この時点でまだ誰にもボランティアに行くことを告げてなかったが、複数の友人に「今、仙台にいる」とメールすると「萩の月買ってきて〜!」と旅行者扱いされてしまった(笑)いいのよいいのよ、まさかだったろうし。


事前に「ここに行く」と決めていたわけではない。宮城かな、というのはあったけど。

情報源としてはネット上の災害ボランティアセンター(各地域で持っている)やツイッターが大いに役立ったが、あそこの地域よりこっちが人手が足りないだとか、あそこよりこっちが被害が甚大だとか、比較できる情報がないため(そこに時間かけすぎるのもなんだしね)、石巻ボラセンの規模の大きさなどをふまえ、石巻、もしくは気仙沼にとなんとなく考えていたが、行き先が確定してなかったのでアクセス方法までは調べていなかった。

一昨日土曜(4/16)に仙台駅構内に「ボランティア情報ステーション」が設置され、

毎週末対応してくれるそうだが、今日は月曜なので人はいない。いないながらも張り紙があり、宮城県内の各ボラセンのボランティア受け入れ情報が張り出されていた。もちろんその日のもの。旬の情報である。

なにはともあれ石巻へ行こうとそこで判断し、駅員に電車で行けるか聞いたが「いやいや、それは無理」とのこと。

のちにすぐ分かることだが、仙台-石巻間を走っていた海沿いの仙石線は壊滅状態である。ボランティア作業で毎日通った石巻駅近くの踏切のすぐ入ったところにはいまだ横倒しになった乗用車が線路上にあったくらいで手つかずなんだと思う。

シャトルバスが臨時で出ていて、石巻まで行けるというので15:40乗車。

仙台駅の駅ビル外壁は↑写真のようにいまだ修復作業中ではあるが、店や街行く人の印象は都内とさして変わらないように感じた。

シャトルバスに揺られ、途中瓦礫の集積場らしきところも見た。黒色のお墓に妙に目立つ明るい色の花が供えてあるのが印象的だった。

確認不足だったんだが、シャトルは仙台-石巻という二地点を結ぶだけで途中バス停があると思わなかったが「石巻駅」らしきアナウンスで降りない人多数。行き過ぎたらまずいとそこで降りるも、目指す「石巻ボラセン」が設置されている石巻専修大学はそこにはなかった。

地図もなく、バス停の時刻表を見ながら待っている方に聞くとこの時間から「石巻ボラセン」へ向かうバスはなく、バスでもまだ30-40分かかるところにあることを知る。

初日から「やってもーた」であるが、同じバスで同じくここで降りて、トボトボ1時間以上歩いてボラセンまで来た人を数時間後に知る(笑)


バス停で尋ねてみた3人組のうち2名が夫婦で1名は旦那さんの同僚女性で現在仙台に避難(待避)しているため、仙台行きのバスに乗ったら僕をボラセンまで送っていってくれるという。途方に暮れたのはわずか何秒かだ。

初日からなんて恵まれている!とともに申し訳ない気分。


(以下記憶を呼び起こしてますが情報(特に場所)が正しくない可能性あり、あらかじめ断っておきます)


その夫婦は東松島在住で奥さんはそこで被災、家は流され、本人は水に浸かった低体温状態で翌日自衛隊員に救助され日赤病院へ、ご主人は石巻で勤務中被災、奥さんのおじいさんは岩手大槌町で行方不明となり、のちに遺体で発見。

ご夫婦の車は東松島か石巻で流されたが、おじいさんの車は残っていて今僕が乗っているのはあのオレンジと黄色のマークを付けた亡くなられたおじいさんの車である。奥さん(or 旦那さん)の姪っ子は岩手釜石で被災。

それぞれ避難所を経由し、3日ぶりだかで夫婦対面した時は号泣したという。今はどちらかの実家か、親類の家に身を寄せているという話だったと思う。夫婦の絆は深まったと笑っていた。


道を走っているとそのあたりは津波の大きな影響は受けてないものの、左に営業している弁当屋があるかと思えば、道の右側は地震にやられ、営業していない店といった具合で「石巻」と一括りにはできない状況を知る。これは「仙台」も同じでしょう。

ほぼ同世代のご夫婦は「仕事のこと、家のこと、子供の学校のこと、いろいろありすぎて…ここまでは気を張ってやってこれたが、そろそろ限界」という本音を打ち明けてくれた。全部一気に解決はできないわけでまずは仮設住宅だろうという話をしたが、1万戸必要なのに現在やっと数百ということも「頑張ろう」という気になれない要因の1つだとも(4/26、国会中継見てたら宮城県内だけでも3万戸必要みたいだ)

そういう状況だから気分変えようと、開いているお店にわざわざ外食に行ったのに悪い対応されて頭に来た、なんて話も聞かせてもらった。本当に限界なんだと思う。

ボランティアには感謝、僕が東北に知人がいるわけでもなく来たことをひどく喜んでくれた、というか驚いていた(のちに一緒に作業するボランティアの多くは被災地と縁もゆかりもない人が多かったように思う)。でも奥さんは実のお父さんを亡くしてるわけだし、蟻ん子のような個々の力よりも自治体、国が早急に対応しないとと初日からやや複雑な心境に。

奥さんは化粧品の代理店に勤めていて、姪っ子さんがデザインした「がんばろう東北!」と上記4地域(大槌町/東松島/石巻/釜石)が記された名刺兼サンプルを持ち歩いていて、僕にくれた。お礼の手紙と何か送ろうと思う。

すごくフレンドリーに接してくれたが心の内を理解できているわけがない。こういう方がきっと何万人もいるのだ。


ご夫婦のご厚意により、無事石巻ボラセン着。多くの車、テントが専修大学敷地内にある。正面の道を隔てて左サイドには少数ながら自衛隊の方々のテントもあった。

【後日談】頂いた名刺の住所にお礼の手紙と品を送っていたが、5/3旦那さんから電話があった。荷は現在の避難先である岩手(何でも会社の本社があるとか)に転送されてきたとのこと。届いてよかった。




ここで上記石巻ボラセンのホームページに記載されている項目を一部抜粋する。


●主なボランティア活動の内容

  • 津波被害を受けた家屋の家財道具・畳みの搬出、泥出し、避難所支援など

●事前にご準備頂きたい事

  • ボランティア保険(天災型)を活動される前日までにお住まいの社会福祉協議会の窓口でご加入下さい。
  • 汚れても良い服装でお越しください。長靴・厚手のゴム手袋・ヘルメット・ゴーグル・マスク(多層式)・タオル・ウエットティッシュ・雨カッパ(上下)

これをふまえ、金曜日に地元でボランティア保険に加入した。

持ちきれないと判断した長靴、ヘルメット以外はすべて揃えた。もちろんここに記載のないちびちびいけば数日暮らせるだろう量の食料も持ってきている。


17:30頃、受付をすます。ボランティア保険の申請書やら保険証やらの提示が必要かと思ったが特になく、個人情報と何日ほど作業できるかを記入した。

数日前、ここ石巻ボラセンを取材したテレビを見ていてテント内のボランティアにテントや食料などどうしているか?とインタビュアーが尋ね、「前の人がいろいろ置いていってくれるんですよ」と話していたのを思いっきり鵜呑みにし、超初心者のバカたれな僕はテントや寝袋は借りられるものと大きな誤解をしていた。今思えば当たり前のことだが、なんとも素人丸出しである。おそらくインタビューを受けたボランティアはどこかの団体に所属していて、その団体の持ち物として順繰り使用しているのだと思われる。後の祭りだけど。


以下は実際手荷物として今回持参したもの。


【新規購入】リュック、ゴム手袋、ゴーグル、帽子、多層式マスク、ウェットティッシュ、iPhone電池式バッテリー&エネループやアルカリ電池10数本、ハンドタオル、記録用ノート、カロリーメイト等非常食(現地調達無理だと思ったのでそこそこの量)、ガム、キャラメル、チョコレート(タバコ吸えない対策も兼ね)、カッパ上下


【あったもの】電池式ライト、歯ブラシなど洗面具、薬、タバコ、フリスク、長袖/半袖Tシャツ/靴下/下着など2-3日分、USB充電方式のiPhoneバッテリー(友人からビール一杯で譲ってもらった)、まったく読まなかったが小説2冊


風呂など入れないと覚悟の上、着替えも2-3日で1回くらいに考えていた。また、タバコも現地では吸えない覚悟もしていました。1日2箱吸い続けている身としては風呂よりメシよりこれを断つ覚悟の方が大きかったように思う(避難してる方々を思えば、何言っちゃってるの、ですが)

ツイッターでボランティアが長靴の上から釘を踏み抜き、破傷風になっているという情報を得ていたため、昨日自転車で何件か作業服屋をまわり、セーフティインソールというステンレスの中敷きを入手したかったが見つからなかった。ネットでは完売状態で、軒並み都内では入手困難な状況だったようです(ボラセンで知り合った方は川崎だか横浜では手に入ったと言っていた)

と同時に、数週間前に止まってしまった時計の電池交換をしてもらいました(しかし石巻入りしてすぐ止まったのでクレームにいこうと思う笑)

校舎近くに仮設トイレを見つけたものの、どうやら大学構内が避難所の1つらしく(そういう情報も調べてなかった)主にそれは避難されてる方用でした(ボランティアが使っていけないわけじゃないけど)のちにもう2箇所がボランティアエリアにあることが判明。避難されてる方用の喫煙所もあり、タバコを吸ってる方もいました。


仮設トイレは足でプラスチック製のボタンのようなものを踏むと軽く水が出てきて、圧で下に落とす感じですが、のちに作業するお宅近くの避難所の仮設トイレはいわゆる「ボットン」でした。こういう格差もなくなればいいなと。避難されてる方の精神的負担を少しでも和らげたい。もう丸々5週間経ってるんですよ。物理的に無理なのかもしれないがトイレ同士の間隔を空けるとか、デパート等で音消しに流れる人口の音の機械を電池式かソーラー電源でどこかの企業が提供してくれるとか、なんかできないものかと。


←写真は構内の避難所近くの(おそらく無料)電話機。ここに唯一あたたかい缶コーヒーが買える自販機があり、毎朝それを買ってました。


大学は郊外にあるのでやはり歩いていける距離にコンビニやスーパー的なものがあるはずもなく、食料調達は足(車)がないとどうにもならないことを改めて知る。

なによりこのボラセン、周りに高い建物がないため、風が一旦吹くと凄まじい寒さに襲われる。今日の寝床は死活問題だ。テントも寝袋もない。そう、もう1回言う。テントも寝袋もないのだ。

これもツイッター情報だが、とある著名ミュージシャンが石巻入りした時、日中だとは思うが上はTシャツだったという。それでまさか真冬並みの装備まではやりすぎかと勝手に判断してしまったため、上着も非常に薄いものを着ていた。というかやはり無知な素人のバカたれとどうぞツッコんで下さいませ。


正門から建物まで一直線に100〜200メートルほど道があり、途中に小さな8角形の建物がある。休憩所のような感じ。




この休憩所の外に喫煙所というか灰皿があり、タバコを吸う人間が集まってくる。

喫煙者は大いにうなずくと思うが、喫煙所というのは格好の情報交換の場で、ここで僕はいろいろな情報を入手できた。

まず、K大学の学生ボランティアの二人(K大学のテントは非常に大きかった)

救急救命士というキーワードを専攻しているKさん。

震災3〜4日目に現地入りし、日赤病院(ボラセンから見える距離にある)内で給水機を作ったり、ヘリでヘドロのまっただ中へ下ろされたり(その際数万円のジャケットはヘリの風でヘドロまみれと涙した)今回とは別の話だが山岳救助にあたることも多いらしい。

同じボランティアでも限りなくプロに近いんだが、それでも自衛隊のような活動とは線が引かれ、もどかしい思いもあるようだ。

ちなみにKさんのボスというか上の方は震災当日夜に石巻入りしたらしい。


同大学Yさん。

救命士ではないがKさんと先輩後輩的な関係にある感じ。

被害のあった家の位置を調査するローラーという作業をしていた。

彼も山岳救助の経験がいろいろあるようだ。


次に都内から来られたNさん。

彼はボーイスカウト団体の一員で前述したイオン石巻で僕と同じくバスを降り、延々歩いてここまで来た人間である。

僕自身当初高速バスで来ることを予定したものの予約がとれずだったのに対し、彼はどうも違うサイトで予約し高速バスで来たようだ。


また、ここに一人でこられたというNさん(女性)が現れ、どこかの団体がボランティア用に炊き出しをやっているという情報を得る(チャンス!)

女性一人でやってくるボランティアもそこそこいました。

その後行ってみてスープカレーやコールスローをいただいた。炊き出しをもらっている多くは持参の鍋や箸であるのに対し(外国人率高かった)、何も持たず「一人で来たんですがいただいていいですか?」というのはなんとも情けなかった。

「今日はどんな作業を?」と聞かれ「明日から」と答えると「じゃあ、食べた分明日がっつり働いてくださいね〜!」と。イタイ...。せめて働いてから頂戴しろオレと敗北感。

東京駅で買ったおにぎりを昼は我慢し食わず、夜になって1個だけ食べていたがこの炊き出しには助かった。


みんなが各々テントへ去っても行き場のない僕はその休憩所(外の明かりはついてるが中は暗い、もちろん暖房はない)にいるんだが、ある時強面の男性がやってきて「まさかここで寝るんじゃないよな」的プレッシャーを与えてきて焦ったが、のちに和解した。

彼は茨城県鹿島から鹿島自体被害を受けているにも関わらず4/7に石巻入りし、すでに11日目。3ケ月は滞在するという強者だった。強面で強者だ。強すぎる。

彼は携帯充電しに避難所へ行き、とあるNPOに「ここは避難されてる方が使う電源だからNO」と言われたり(まあ、そうなるわな。どちらの言い分も分かるが)、たまった洗濯物を鹿島に送ろうと避難所を出入りするクロネコヤマトの配達人をつかまえ、交渉、現在長期滞在をふまえパソコンを鹿島から送ってもらおうとやり取りをしている段階だ、など話す(数日後会った時届いたパソコンを充電していた)

使わなかったが校舎付近は無線LANが使えるという情報も得た。

ボランティアの個人宛の荷物の受け取りを学校側やボラセンの事務局が対応することは現実的にあり得ないわけだが、ヤマトさんはすぐ伝票を持ってきてくれたり、助手席にあった段ボールを提供し、テープで張ってくれたり、協力的だった模様。

ちなみに石巻に4つあったヤマトの営業所の3つは流されたとか。

震災時におけるヤマトのがんばりはツイッターでも知っていたので(例えばこれ)、実感したという感じ。

彼のアドバイスもあったが、一人で、かつ数日の滞在であれば一日作業をし、1時間半弱かけて仙台へ戻り、ビジネスホテルやマンガ喫茶で泊まり、朝再び石巻へという手があると。実際そうしてる人もそこそこいるらしかった(とはいえ、この日すでに仙台行きバスはなかったように思う)

う〜ん、どうしたものか。


喫煙所で会う大学生含む上記3人はその後よく会って話したんで、それぞれ「テント入ってもたぶん大丈夫」と誘ってくれたが、結局難しいことになり、他の人のテント内スペースを間借りするフトドキ案は消えてなくなり(まーね、部外者だもんな)、いよいよ夜は更けていった。とにかく寒い。ガタガタ震えることになるとは想像もつかなかった。

強面の人が「今夜はここで横になってればいい」と言ってくれたので他に手はなくそうした。彼が危惧していたのは数日前まで使えなかったこの休憩所(主に充電用)。お願いして使えるようにしたのにそこを寝床にしたりし、学校側が再び閉じてしまうと困るからだ。人の気配を消すことを誓った(消せねー)

実際雨の日、テント禁止エリアである校舎側の屋根のあるところにテントを立てた不届き者がいたという。ああ、耳が痛い。「そりゃねーよ」と思いながらも今晩の僕は同じようなものだ。

目をつむり、横になるも寒さで寝れない。暖をとるため足をすりあわせたり、座って足踏みをしたり、とにかく体を動かして寒さをしのごうとしたがまったく解消せず。とうとう朝まで一睡もできなかった。寒いと涙が勝手にでることも石巻の地で知った(笑)涙もろすぎ。自業自得である。


ちなみに構内の外灯も昨日まではもっと少なく真っ暗だったのに対し、今夜は明るいとみんな言っていた。【続きを読む

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